Fielder vol.27 日本探検 ー目次ー

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ちょっとした意識と技術で身近な場所が楽しくなる

ドブネズミと同じく当然ヒトも動物である

 我々はヒト属唯一の現存種“ホモ・サピエンス”である。ヒトが自ら作成した国際自然保護連盟のレッドリストによれば、我々は軽度懸念。ヒトもドブネズミなど、約1万4000種の動物と同じく、絶滅の恐れがない動物というわけだ。

動物のテリトリーは構造と能力で決まる

 ご存知の通り、動物にはそれぞれテリトリーがある。その住処や糧を得るための行動範囲は、個々の種の構造と能力によって決まっている。太古のヒトたちはその知能を活かして、多くの仲間を失いながらも危険な地理的空白部へと繰り出し、テリトリーを広げた。それが今、軽度懸念の動物として世界中に分布するホモ・サピエンスの由来である。

行動範囲を広げる探険こそ神聖な行為だ

 だから、世界各国でテリトリー争いを勃発させている宗教の歴史がいかに古くとも、ヒトのテリトリーを決めたのは「探検」行為である。ある民族がジャングルで暮らし、ある民族が砂漠で暮らすのは、あらかじめ決められたルールではない。ヒトが神に創造された世界観を抱くようになる以前から、山、川、海を踏破する行為は行われていたのだ。言うならば、自然の厳しさに直面し、多くの仲間を失ったからこそ、ヒトは山や海を畏れ敬い、神として崇めるようになったのではないか。ヒトが自身の能力だけで自然と対峙する「探検」行為がなければ、富士山も那智の滝も、もっと蔑ろにされていたに違いない(だから科学技術で簡単に自然を凌駕できる現代になって、神や自然が蔑ろにされている)。

ときに道を外れる探検心を忘れるべからず

 すべからく、「探検」は動物が生きるための本能的行為だ。品行方正な本誌ゆえ“現行の法律やマナーは遵守するべき”と考えるが、本来「探検」行為とは人為的な何かに阻まれるものではないし、それで命を落とすことに対して本人も周囲も文句は言えない。未だ知らぬものを探し出す欲求こそ、今の今まで我々を生かしてきた源なのだ。切符を買わされて決められた道を行くのは本能的じゃない。人間はヒト属唯一の現存種として、少しは外道であるべきだろう。

すべてが明かされた時代現代人にも探検はできるか?

 さて、そんなことを言っても今は科学技術で宇宙にも行ける時代、この小さな島国に探検の地は残されているのか? コアな部分では、本当の意味で未知を得る探検は残されている(それは次頁“外道クライマーの肖像”に書いてある)。そして、我々個人の体験に限れば、探検の類は無数にある。ただ道を歩かされ、決定事項を聞かされるだけの単なる生産力でいることはやめて、自分の知的好奇心に素直でありたい。

※この記事は2016年4月発売『Fielder vol.27』に掲載されたものです。