【vol.54】反権力 生活の 勧め(前半)

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三里塚 ー半世紀にわたる反権力闘争の現在ー

海外旅行への玄関口として定着した成田国際空港。地元三里塚は、一九六六年の空港建設の閣議決定以来、警察機動隊と反対派との激しい衝突を繰り広げた闘争の歴史を持つ。その後、有機農業の先進地として成長し、多くの人がそれを支える。反対運動は五四年続く。もはやそこでの暮らしそのものが反対の表現だ。航空機の轟音の下での農業と暮らしは私たちに何を伝えるのか。一週間、三里塚で暮らして考えた。
文・写真 宗像 充


 

三里塚闘争とは?

塀に囲まれた農作業

「以前は市東さんの家から歩いて来られたんだけど、成田市が市道を空港会社に売って車で遠回りしないといけなくなった」

運転席で支援者のトオルさんが憤る。塀が両側にそびえるダートの道を分け入ると、「空港会社立ち入り禁止」の看板とともに畑が現れた。「ただいま耕作中」を主張する看板を過ぎると、雑草混じりの畑が広がる。時折「ゴー」という音がする。奥のフェンスの向こうを着陸した旅客機が移動しているのが見えた。

八月一〇日に三里塚天神峰の市東孝雄さんが耕す畑の農作業をトオルさんと手伝った。七月の長雨で農作業が滞っていたようで、ネギ畑を這いつくばって、元気な雑草を引っこ抜く。

「市東さんは小作なんだけど、地主が市東さんのお父さんの代にお父さんに知らせずに今市東さんが耕している農地を空港公団(現空港会社)に売り渡していた。地主は市東さんに知らせず小作料も毎年受け取っていた。それがわかったのが一五年も経った二〇〇三年」

思わず「詐欺じゃないですか」と口にする。テーブルを囲んだ支援者たちが「今年一番」と口にする暑さを避け、市東さんの自宅で休憩しているとき、その中の一人が説明してくれた。市東さんがその事実を知ったのは新聞報道だった。以来空港会社に土地明け渡しを求められ、その裁判が続いている。

「そうなれば農業が続けられなくなる」

一人が口にした。ここでは農業を続けるということが空港に反対することだ。

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市東孝雄さん。祖父・父と100年にわたって三里塚で農業を営む。戦争に行った父親の復員が遅れたので農地改革に間に合わず、小作料を毎年支払ってきた。

今も続く三里塚闘争

「まだ家があるんですか」

取材期間中に成田のぼくを訪ねてきた友人は、空港予定地内に民家があると説明すると驚いた。羽田空港の容量限界の解決策として、新国際空港の建設のため、成田空港の設置が閣議決定されたのは一九六六年のこと。五四年経った今も、空港予定地内の東峰・天神峰地区を中心に民家や工場があり、農業や生活が営まれている。

予定地南側に農地や民家があるため、二〇〇二年に運用を開始した東側の滑走路は、二一八〇メートルの暫定滑走路(B´滑走路)として建設された。二〇〇九年に北側に延伸して滑走路が二五〇〇メートルになるまで、当初は大型機の着陸ができなかった。

市東さんの自宅や東峰地区に残る民家に行くには、滑走路の下をくぐるトンネルを抜ける。一帯はフェンスや航空保安灯が並ぶ異様な光景だ。市東さんの自宅を航空写真で見ると、滑走路や誘導路に囲まれて島のようになっている。市東さんの農地がある個所は誘導路がへの字に屈曲し、航空機同士の接触事故も過去起きている。わざわざ民家に隣接して航空施設を作り轟音とともに反対農家を追い出す。「いっそう反発が強まる」とトオルさんが代弁する。

東峰地区には家や畑だけでなく、共同墓地や神社もある。フェンスで挟まれた一本道の突き当りに、着陸する航空機の撮影スポットとなっている東峰神社がある。頭上すれすれを航空機が通り過ぎる。防火用水があるので、地元で暮らしながら支援し、案内してくれた友人のナンバさんに「火事が起きやすいんですか」と聞くと、「それは過激派への放水用」と返ってきた。

成田空港の周辺は、半世紀にわたって続いてきた対立の爪痕が各地に残る。

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フェンスのどん詰まりに東峰神社がある。部落の共有施設のため収用できず、空港内の撮影スポットとなっている。

頭ごなしの計画決定

「成田市三里塚への空港建設が公表される前、国は千葉県富里町での空港計画を反対運動の高まりで撤回している。その後、三里塚が予定地として浮上したのには、御料牧場という公有地があったのと、開拓部落が中心なため、金を積めば空港建設が可能だと国が踏んだからと言われている」(ナンバさん)

しかしこの建設案は地元に相談もなく決められたため反発を生み、予定地内や騒音地域の農民を中心に「三里塚・芝山連合空港反対同盟」が結成された。以後農民を中心にした激しい反対運動が展開された。

砦の建設や強制収用をめぐる火炎瓶や催涙弾による攻防、大量逮捕や反対派、機動隊側双方に死者を出す激しい対立状況を生んだ三里塚闘争はまさに戦争。国は一九七八年三月に予定されていた開港を、反対派による管制塔の占拠で二か月延期する事態にまで追い込まれている。

建設側に立てば空港予定地内に残る民家は「邪魔者」だ。しかしその存在こそが、権力の蛮行の歴史を物語っていた。

成田空港拡張計画

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萩原富夫さんは空港予定地内に農地を持つ。

三里塚発、有機農業への挑戦

空港予定地でとれる野菜が玄関先に 

「なんで美しい環境を壊してまで利益を上げなければならない? 単純なことなのにどうしてわからないのかな」

着陸する飛行機を間近に望む畑で、萩原富夫さんがピーマンを摘みながら口にした。当初一二〇〇戸を数えた反対同盟は五〇年の間に戸数を減らし、今予定地内に農地を持つ反対同盟の農家は世代も代わり、市東さんと萩原さんの二戸になっている。

萩原さんももともと三里塚に来た支援者の一人で、農家の婿として農業を営む。どうして反対を続けてこられたのかという質問に「死んだオヤジ(義父)は国、悪政と闘う立場。それは私も同じ。それがないと普通じゃ続けられない」と萩原さんは答えてくれた。

「運動もはじめはベトナム戦争に加担する軍事空港反対という主張だった。それが政党が闘争から撤退して、農業に関する考えが出てきた」(萩原さん)

一九七一年に強制代執行が行われた際の砦の攻防戦では、「日本農民の名において収用を拒否する」と大書された看板が掲げられ、国の農民つぶしに反旗を掲げた。

やがて反対派農家の中から有機農業への取り組みが始まり、萩原さんは市東さんと「産直の会」でそれを引き継いでいる。農薬・化学肥料、機械化で大規模、集約化を目指してきた国主導の農業とは別の歩みだった。

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萩原さんの農地(空港予定地外)。三里塚は戦前、戦後と開拓され、農家は1ヘクタールの四角い土地を持つ。

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9月22日に用意した産直の野菜。季節の野菜が送り出される。

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三里塚の野菜、卵で作った朝食。空心菜の食感がたまらない。

どんな野菜が作られている? 

萩原さんの一ヘクタールの畑には、さまざまな種類の野菜が区画を分ける。一年で六〇種類を育てるという。

「農業はおもしろい。仲間も揃っている。ただ、休日もなく毎日働かないとやっていけない。野菜の値段がそろっていればいいんだけど」(萩原さん)

産直の提携先は三〇〇戸。一ケース一二〇〇円+配送費で毎週や隔週で季節の野菜を送り出す。ジャガイモ、ネギ、ナス、シシトウなど一般的な野菜の中、夏の青菜として空心菜の色が映える。油と相性がよく炒めて食べると香ばしさが引き立ち、歯ごたえもいい。

「父親の代は落花生と麦の畑で野菜は自家用だったのが、多品種だとそれなりに手がかかる」という市東さんの自宅そばの農地も、所せましと野菜が並ぶ。都会で飲食店で働いていた市東さんは、お父さんが亡くなると四九歳で実家に戻り、農地と空港反対の遺志を受け継いだ。

冷蔵庫からちょうちょが

「無農薬露地栽培だとハウスと違って野菜が生長するのに時間がかかって味が濃くなる。あるお宅で、夫が産直のトマトはまだ食べたことがないと言っていた。妻が買ってきたトマトを産直と言って出すと『これは偽物』と見破った」

八〇年代から三里塚にいる支援者が説明してくれた。コンテナの縦幅に入るまでという規格で大きさは不揃い。消費者に理解がないと規格が厳しくなりこうはいかない。泥付きの野菜が排水溝を詰まらせるのでプランターに入れたらよく育ったというエピソードもある。無農薬でも除草すれば虫もつきにくい。それでも「青虫や夜盗虫でキャベツが大打撃になった」と苦労も絶えない。「飛行機の爆音で鳥は逃げる」とならではの現象もある。

三里塚の野菜を消費者に送る産直運動はほかにも「三里塚ワンパック野菜」や、八〇年代には有機食材販売の「大地を守る会」などが生まれた。闘争で忙しい農家を支える「援農」も長年定着してきた。空港周辺には支援者が泊まる団結小屋が今もあり、今回ぼくも泊まらせてもらった。そこから通ってくる支援者(「現闘」と呼ばれた)が、産直運動でもともに働き、市東さん宅ではトラクターを動かしていた。市東さんは一人暮らしなのでいっしょに農業をしているという感じだ。

トオルさんの配送に同行した。遠方は段ボールに詰めて宅配で送る。近くの家はコンテナに野菜を入れたまま玄関先まで届ける。

「冷蔵庫から蝶が飛んで出てきたことがある」

マンションのエントランスで、宅配先のご夫婦とちょうど行き交った。キャベツについていたさなぎが冷蔵庫に入れている間にふ化したという。学校の先生をしていたご夫人は、授業で使うために青虫を産直の会に頼んだこともあるという。

「うちでも菜園をしているけど、三里塚の野菜は味が全然ちがう。スーパーで小松菜を買って食べるんだけど、まずいから早く届けてほしい」

消費者とのやり取りがうれしい一幕だった。

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近隣の町にある赤池配送センター(昔でいう団結小屋)。1週間お世話になった。

団結小屋で生まれた農業改革

「国が成田空港の設置を決めたころ、三里塚は近代農業の波に覆われていた。一九七〇年から七一年にかけて、農薬・化学肥料を使った農業での収量が落ち、耕運機やトラクターの導入は機械化貧乏を生んだ。曲がり角だった」

平野靖識さんは三里塚で有機農業が定着してきたのを、東峰地区の未収用地の一角に建つ「三里塚物産」を経営しながら見てきた。農村の人々に学ぶ、中国の文化大革命時代の農村への下放の日本での目的地として一九六九年の大学卒業後、三里塚に来た。地元で「らっきょう工場」として親しまれる建物での生産販売は、「暮らしを維持しながら闘う」という三里塚の要請の中から生まれた。

「当時水俣病の患者が東京で座り込みをしていた。団結小屋で『水俣に毒を垂れ流す化学企業が作る化学肥料を使う農業では反権力の名が廃る』と議論した」

「農協の勧めるままにやってきたけどいいことなかった」という声も上がった。

「昔のたい肥づくりは化学肥料なしでやっていた。反対同盟の中にも理解者ができ、微生物農法の会が作られ、そのテキストが獄中に差し入れられた」(平野さん)

死者も出す強制代執行をめぐる権力と住民との激しい対立の結果、闘争の長期化は避けられなくなっていた。空港公団に土地を売るのは貧農からで、貧しい人たちの経済的基盤を豊かにすることが反対運動の課題だったのだ。

市東さん、萩原さんの農地の野菜

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農業の公共性と三里塚の未来

ふるさとを取り戻す取り組み 

工場の代名詞、らっきょう漬けも、「付加価値をつけて売り出す」という創意の中から生まれた。工場の入り口の脇に焼酎甕が置いてあった。「この辺のおばあちゃんたちは、この中にらっきょうと塩を入れ、朝夕蹴飛ばして漬物にした」(平野さん)

平野さんがはじめに勉強に行った茨城・筑波山麓の有機農業グループは満州から帰還した入植者で、チンゲンサイやホンタイサイなど中国野菜を作り、東京の中華料理店に持ち込んでいた。直接販売なので価格決定権は農家にあり、産直の元になった。

「三里塚の有機農業への転換は生協や消費者からのイニシアティブではなく、農民の側からの農業の見直しだった」

平野さんは三里塚独自の「追い風」も強調する。

「何十万人という人が三里塚に支援にやってきた。その人たちは町に帰れば消費者。支援者が三里塚の野菜、有機食材を買うことで闘争を支えた」

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以前は焼酎甕の中に入れてらっきょう漬を漬けた。

空港の対抗的理念に

一方、有機農業は、空港の公共性に対抗する新たな理念も生み出していった。

反対同盟は一九八三年に二つに分裂し、平野さんの属する熱田派は、九一年~九四年にかけて行政と地域代表、反対派が対等な立場で話し合う「成田シンポ・円卓会議」に参加している。

「強制収容の根拠となる事業認定は二〇年の失効期限を迎え、私たちが公開で質問したのもあって、国は追い詰められていた。そのころ反対同盟はみんな有機農業農家で二〇年のキャリアを積んでいた。空港の公共性を掲げ国は建設を進めてきた。しかしそれは大量生産・大量消費の交通版です。それに対し、循環と持続性を持つ有機農業も公共性がある。そちらのほうがもはや大事なのでは」(平野さん)

それには国との間で行司役となった学識者からなる調査団も納得した。

「百姓の言い分にも一理あると認めたのはうれしかったですね。国は空港の位置決定・建設過程が民主的でなかったと謝罪しました。でも私たちが求めたB滑走路の建設中止には応じなかった」(同)

ただ調査団は、B滑走路のための用地取得に際し、「あらゆる意味で強制的手段が用いられてはならず、あくまで話し合いにより解決されなければならない」とした。反対し続ければ合意には達しないはずだった。

ところが、市東さんの農地は、農業を守るはずの農地法をもとに、裁判で強制的に取り上げられようとしている。平野さんはそれを「逸脱」と批判する。

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三里塚物産の販売商品。らっきょう漬、落花生、野菜ジュース。

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落花生は地表を覆うパイオニアプラント。(萩原さんの空港予定地の農地にて)

地域づくりの拠点に

現在三里塚物産は、らっきょうだけでなく、生協から求められて有機での落花生を取り扱っている。

「かつては『粗放作物』と呼ばれ『安い』『貧しい』の代名詞のように見下されていました。でももともとパイオニアプラントとして地表を覆い、関東ローム層に適した作物です。高く買い取れるとなるとみんな作るようになりました。それが農業の新規就農の機会を提供した。もともとたくさんよそ者が入ってきていたので移住者へのアレルギーも少ない。現在取引のある落花生関連の農家四〇軒のうち三〇軒が若手です」

三里塚物産は、移転していった地主から土地を買い取り、現在は地権者。

「いつづけて地域の問題に取り組むことが反対運動」

時折旅客機の轟音が響く中、平野さんは自然体だ。

成田空港潜入

九月二三日、成田空港ターミナルに潜入した。管制塔占拠のときのように、下水道からではなく、ナンバさんに車で送ってもらってあっさりロビーに到着。

閑散としたロビーは薄暗く、警備の警官ばかりが目立つ。航空会社のカウンターに人がいるのを見つけるほうが難しい。モールはシャッター街になっていた。

新型コロナの感染拡大で、成田空港の旅客数は前年同月比で三月には九八%減。来年四月までトータルで五〇〇億円超テナント・航空会社の支払い猶予などの支援を行う。四月にはB滑走路を閉鎖。八月に再開したものの、九月の旅客数は九九%減。

電光掲示板を見ると「欠航」ばかりだし、展望ロビーから滑走路を見ても、いつまでたっても離陸しない。実際にはA滑走路一本で十分足りる。

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閑散とした成田空港第一ターミナルビル。

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電光掲示板は「欠航」ばかりが表示。

空港廃港は夢か現実か?

滞在最終日の二七日、成田市赤坂公園で、反対同盟の全国総決起集会が開かれた。

農作業で使われるコンテナが演台に変わり、党派は参加者にオリジナルカラーのヘルメットを配って「正装」。野戦病院のテントやわんさと集まる私服刑事を遠目に見ていたら演説が始まった。

反対同盟の萩原さんが、「空港よりも農業。静かな空、きれいな空気、穏やかなふるさとを取り戻す」と表明。倒産寸前の成田空港・航空会社の経営危機で、長年掲げてきた廃港が現実味を帯びてきた。

この間、成田空港は空港機能強化案として、現在六時~二三時までの飛行時間を五時~深夜一時の二〇時間にし、B滑走路を一〇〇〇メートル延伸、C滑走路三五〇〇メートルの新設を進めている。羽田との対抗上機能を強化すれば需要が喚起されるという予測はもはや「願望」。騒音被害から住民運動も新たに起こり、演壇からの「破綻」「無理」という批判も単なるプロパガンダには聞こえない。

それでも市東さんの農地取り上げの手続きは止まらない。

「何で私が訴えられるんでしょうか」

朴訥な語り口調で市東さんが疑問を投げかける。やっていたのは親から受け継いだ畑で野菜を作っていたにすぎない。空港計画の前に三里塚の農民がみんなそうしていたように。

「小作でもそこで生きていく権利はある。正しいものは正しい。私はうそをつかない。完全無農薬でやってきた」

有機農業にウソはない。だとするとウソがあったのは空港か。

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空港機能強化案では運行時間が深夜に及び、これまで運動にかかわっていなかった住民も声を上げている。

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半世紀以上の闘争を続けてきた反対同盟。

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農業用のコンテナは演台に早変わり。

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今回案内役のナンバさん。