夏が終わり、民宿状態だった我が家もようやくいつもの静かな生活に戻った。黒潮の大蛇行が約8年ぶりに本来の流れに戻ったため、今年は夏になっても驚くような高水温にはならず、海の潮位も高くならなかった。それゆえムロアジの群れも多く、カンパチがよく獲れた。
僕がメキシコの写真集作りのために本土に戻ってしばらくすると、八丈島にでかい台風が上陸した。連れ合いとの連絡も途絶え、連絡が取れたのはその2日後だった。ニュースやSNSを見る限り、とりあえず誰も死んだ人はいないようなので一安心したが、どうやら僕たちの住んでいる山の中にある地区の被害が一番ひどく、町から避難所に指定されていた元小学校にも土石流が直撃したようだった。電話口の連れ合いの口調もテンパリ気味、かつ、また次の台風の直撃が予報で出ていたので、運良く一席だけ残っていた飛行機の最終便チケットをゲットして、急遽島に戻ることにした。
停電で真っ暗になった山道に入ると、至る所で土砂崩れがおきていて車がギリギリ通れるくらいの道幅で、また雨が降ればすぐに崩落しそうな状況だ。小学校に着くと建物全体に土石流が直撃したようで、大量の倒木が幾重にも重なり自動車がその間に何台も挟まっていた。土石流が一番初めに直撃した谷筋にある教職員住宅の1階部分も土砂に埋もれ、流されたユンボが重なり合って建物にめり込んでいた。
その風景は311の時に見た、津波被害のあった東北の姿とそのまま重なった。そしてこれだけ大きな土石流に誰も流されなかったのは、本当に奇跡だった。下流にあった空き家の木造住宅は流されてしまったが、学校や教員住宅が丈夫な鉄筋コンクリートの建物だったことも幸いしたようだ。ただ、以前から小規模な土石流が起きていて安全性の危惧があった避難所に行きさえしなければ避けることができた災難だったことが気の毒だった。
翌朝、明るくなってから家の周りの状況を確認すると、納屋の屋根に寄りかかるように大きな木が根っこごと倒れていた。家の入り口には近くのビニールハウスから飛んできた長いビニールの束が大量にぶら下がり、裂けた木が幾重にも転がっていて、まるで爆弾が近くに落ちたような有様だった。ともかく次の台風が来る前に剥がれた屋根を直し、倒れて悪さをしそうな木をどんどん切り倒す。
チェーンソーを使い出すと、その音に誘われて「うちの木も頼むよ」と近所の人たちがやってきた。家の屋根をまるごと飛ばされた人や、車や仕事道具を失った人も多く、台風に慣れているはずの彼らも今回の被害の大きさにどこから手をつけていいかわからずに唖然とした様子だ。ただ、僕たちの集落は離島の中でもさらに不便な山の中で、物資が何日も入ってこないことには慣れている。沢で飲み水さえ確保できれば、都会のように生活にすぐに支障が出るわけではないのが幸いだ。
翌日、土石流があった場所の地盤が崩れはじめ、町へ唯一つながる道路がしばらく封鎖されることになり地区全体に避難指令が出た。それでも、必要不可欠な道具が揃う家の方が自分の判断で状況を見極められる上に快適だし、猫もいる。「逃げなさい」という周りの同調圧力をうっちゃって、僕は一人でそのまま残ることにした。集落の大部分の人たちは避難したが、認知症の人がいる家族や動物を飼っている人たちの一部も避難せずにそのまま残った。
人間の存在が消えて、陸の孤島になった集落は無音の真っ暗な闇に包まれ、満天の星が美しくはっきりと見えた。畑に残ったバナナを切り倒してみんなに配りながら、手持ちのおかずがなくなって畑からさつまいもを掘ってきた人や、「電気がなくても暗くなったら寝て、明るくなったら起きればいいのだからいつもの生活とあんまり変わらないよ」と話す島人のお爺さんたちを見ていると、離島で生まれ育った彼らは少し前までそんな生活を当たり前にしていたんだよなと、不平も言わず淡々と生きていく姿を逞しく感じた。
亀山 亮
かめやまりょう◎1976年生まれ。八丈島在住。パレスチナの写真集でさがみはら2003年写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞を受賞。2013年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。その他『アフリカ 忘れ去られた戦争』『山熊田 YAMAKUMATA』『戦争・記憶』などを刊行している。
















台風で島の地形は大きく変わってしまった。